2009.09.18

煩・ナショナリズム ⑱

 もしロシアに日本の一部の人たちが云っているような「反日」というふうな使用方法があるのなら、ブルブリスの北方領土を返還するという話は、右翼政党ロシア自民党あたりからは「反ロ」といわれるのだろう。しかしスターリン主義との訣別による国際的信頼を得るという長期的視野からすれば、ナショナリストであるジリノフスキーの方こそ「反ロ」ということになろう。このことは反日論議においても同様なことがいえる。
 日高六郎は先の戦争のときの父親について次のように語っている。「忠臣気どりの軍人・政治家が、皇室に危機が起こる可能性にほとんど関心を持っていないようであることに、父は激怒していた。『君のため、国のため』に戦争をしてはならないという父の口癖には、実感があった。『忠義をいうものが、最大の不忠者』とも言い放っていた」(『戦争のなかで考えたこと』日高六郎著 筑摩書房)。この引用だけだと日高六郎のお父さんは天皇思いだけの人と誤解されてしまうから更に引用する。「父は後日、私に語った。先住民族のカミは、万物を産み、活かす力である。産むこと、生かすこと、生きることの力がカミである。殺すこと、滅ぼすこと、傷めることは、できるかぎり避ける。天皇の役割は、天皇のために民の犠牲を求めず、民のために天皇は一身を賭けることであるはずだ。(略)父は、天皇制以前が後続の天皇制のなかで活かされることが伝統だと考えていたようである」
 鈴木邦男は『愛国と米国』(平凡社新書)のなかでいっている。「鵜の目鷹の目で、『不敬』 『反日』 『自虐』探しをしたら、いくらでもある」としてこんな例をあげている。私が小学校高学年か中学生になったころ『明治天皇と日露大戦争』という映画があった。大ヒットとなった映画で私も観に行った。上映時間前には映画館の前は人でいっぱい、映画館の人がドアを開けたら、圧力でそのまま人がなだれ込んでしまった。吶喊して撃たれると「天皇陛下バンザイ!」と云って兵隊は倒れ死んでいく。かっこういいな、私はそう思った。天皇賛美の映画である。明治天皇に扮したのは嵐寛寿郎である。「しかし、嵐寛のような結婚と離婚を繰り返すなど私生活の乱れた役者が明治天皇を演じるなど、とは不敬ではないか、という批判だってあった」と。最近の映画でいえば藤田まことが岡田中将を演じた『明日への遺言』。「自らは責任はないのに、部下の責任をとって死んだ。これは、責任をとらなかった天皇への強烈な批判」であるが故に「反天皇制の映画」、そして映画冒頭の重慶無差別爆撃のナレーションは、「反日」であり「自虐的」というわけである。
 こういうふうに使えば私だって幾らでも「反日」であると指摘できる人はいる。田母神俊雄は反日である。なぜなら彼は米国のワナにかかって日本は戦争に引きずり込まれたという。それは当時の政府と軍部、そして天皇は、ワナをも気づかぬ無能、ということを暗に指差すことである。故に田母神は反日である。更に加えれば、こんなことは50年前の高校生が議論した程度の問題、これを平成の御代になっても広言することは、現在の自衛隊トップの頭脳の程度を世界中にさらしてしまうことになる。故に田母神は反日である。ついでに、小泉純一郎は反日である。なぜなら昭和天皇の大御心を踏みにじって靖国詣でをし、民に対しては米国の言いなりになって新自由主義を進め、貧困層の増大と中間層の没落を図り、貧富の差を拡大させた。弱者を切り捨て、地方を疲弊させた張本人小泉純一郎は反日である。鈴木邦男はこんな例もあげている。「『雅子さまは仮病だ。反日だ』などと言い出す人もいる。昔なら『不敬罪』だ」
 何でもかでも「反日」、こんなことが可能なのは「反日」には定義なんていうものがなく、各自の恣意のままだから。だから、「反日」といわれるものの多くは、実際のところ「反日」に値しないものになってしまう。 

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2009.09.16

煩・ナショナリズム ⑰

 ソ連の核を引き継いだ核大国ロシア。日本人が北方領土をほしがるならば、再び広島に原爆を落としてやる、と宣ふのはロシア自由民主党党首のジリノフスキー。当たり前だが日本の自民党とは全く関係のないロシアの右翼政党、右翼の一部の人たちはどうしてこうワンパターンなのだろう。ちょっとコトバを入れ替えれば、どんな国でも右翼のコトバとして通用する。愛国主義と排外主義は普遍的現象だが、普遍的思想としてはありえない。せいぜいポピュリストの道具として利用されるか、ファシズムの温床としてあり続けるだけだ。
 領土問題というのは道理を越えてナショナリズムに火を点ける。ジリノフスキーの原爆発言がある通りロシアでも同じなのだが、ロシアの政治家のなかで北方領土返還を真剣に考えた人もいる。エリツィン大統領時代の一時期、実質的にロシアを動かしたブルブリス国務長官がそうであり、エリツィン自身も「日本に対し、大胆な譲歩をして、北方領土問題を早期に解決することを本気で考えていた」(『交渉術』佐藤優著 文藝春秋)という。またエリツィンは来日したとき、シベリア抑留問題について抑留者団体の代表との会見で謝罪、深々と頭を下げたそうである。エリツィンをただの酔っ払いと思っていた私は恥ずかしくなる。そしてジリノフスキーと対照的なブルブリスという人、こういう人もいるのかとひどく感心した。日本の政治家でこんな人はいるのだろうか。『交渉術』のなかで彼はこう云っている。
 「俺は、ロシアがスターリン主義の残滓を完全に払拭することがロシアの国益にかなうと確信している。(略)非スターリン化は内政だけでなく外交においても行わなければならない。北方四島はスターリン主義による拡張の結果、ソ連領になった。日本から盗ったものだから、日本に返さなければならない。(略)北方四島を日本に返還することによって、外交的にロシアがスターリン主義と訣別したことが明らかになる。その結果、ロシアは諸外国から尊敬されるようになる。ロシアの真の国益に貢献する」
 かつて日本の犯した植民地支配と侵略戦争に、ブルブリスのような姿勢で臨んだ日本の政治家はいるのだろうか。ブルブリスは「国益」のためというがその射程距離は長く、それに反対する世論も時間のなかで「国益」を悟り理解するとしている。これに比べ日本の政治家は、その場限りの対応で「国益」を損なってしまっているのだろう。

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2009.09.15

煩・ナショナリズム ⑯

 ウクライナといえば忘れられないのは1986年のチェルノブイリ原発事故である。事故から23年経ったが30㌔圏内は立入りが制限され、事故後生まれた子どもたちにも肉腫や腫瘍、甲状腺ガン、水頭症などの疾病、生まれた子どもの50%が先天性障害という地区もあるという。ウクライナの隣、ベラルーシのゴメリ州では2008年出生した16,000人のうち400人に先天性障害があったという。一方ソ連の核実験場のあった西トルキスタンのカザフスタン、四国が収まってしまうという核実験場にはチェルノブイリの5000倍という放射性物質が放出され、被曝者は百数十万におよび、生まれてくる子どもたちも疾患に苦しんでいる。ウクライナもベラルーシもカザフスタンも被害者に対しては冷淡、医療も十分ではない。
 原発や核実験はソ連治世下でのことである。ロシアには医療や補償の責任がないのだろうか。あるいはなんらかの手を施しているのだろうか。
 甲状腺ガンはのどにメスを入れて手術する。首に傷痕がのこり薬を一生飲み続けねばならない。「ただ首のところは、そんなに見ないで。 / どうか、そんなに目をむけないでください。」(イリーナ・レツ)と綴る。次の詩も彼女の作品。〈『生きていたい! チェルノブイリの子どもたちの叫び』(チェルノブイリ子ども基金編 小学館)より〉

  覚えているでしょう? 病室の窓のそばのわたしたちのベッド。
     おぼえているでしょう? 一緒に泣いて笑ったことを。
        わたしはいつだってひとりではなかった。
    あなたは病名を知っていて、わたしもそれを知っていた。
           ふたりは同じ病気だった。
   わたしを絶望に追いこんだのは、あれはたしか7月のこと。
           手術室からわたしがもどると
         あなたはもうすでに、いなかった…
   「不幸な友に」 より イリーナ・レツ(15歳) チェルカスカ州

          死にたくありません!
  だって、わたしはまだ14才にもなっていないんです。
   「無題」 アンナ・トカチェンコ(13歳) ホイニキ市

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2009.09.12

煩・ナショナリズム ⑮

 私はソルジェニツィンの『収容所群島』には強い影響を受けたし、『煉獄のなかで』や『ガン病棟』は好きな作品である。だけどウクライナの「ジェノサイド」発言に対するソルジェニツィンの反論は誤っていると思う。残念ながら反論を読んだわけではなく、塩川伸明の引用部分しか知らないが、その部分が文脈から切り離されて引用されているとは思えないので、「誤っている」と云ってもかまわないと思う。
 ウクライナ政府は1932,33年の飢餓によるウクライナの死亡率はソ連の他地域の12倍であると云っている。農民は備蓄食糧を没収され他地域へ行くことも許されず村は孤立、秘密警察等がウクライナの境界を監視し、人々は餓えて死ぬしかなく、子どもの死者はその三分の一を占めていたという。ボリシェヴィキ、つまりソ連共産党がウクライナの反抗の芽を摘み独立運動を潰すため、それがこの飢餓の真の原因であるとしている。
 2004年ウクライナのオレンジ革命は、EU派がロシア派を降した政治闘争であった。グルジアの南オセチア侵攻もそうであったが、バックに米国があったことは公然となっている。04年大統領選挙でEU派として勝ったユシチェンコ大統領が、国内のロシア派を潰すためにもロシアとの対決を鮮明にし、ウクライナのナショナリズムを煽るのは当然のことといえる。ポピュリズムである。だからといって、「ボリシェヴィキ顔負けのデマ宣伝」とソルジェニツィンがいうのは間違っているだろう。
 ソルジェニツィン自身ボリシェヴィキに酷い目にあっているし、ボリシェヴィキを罵倒するのは当然であると思うが、否応にかかわらずロシアはボリシェヴィキ=ソ連の嫡子であることも事実なのだ。日本国が大日本帝国と別個の存在ではないように。たとえウクライナの「デマ宣伝」であったとしても、ソ連という国、スターリン率いる共産党のデタラメな5ヵ年計画、富農絶滅で家と耕地を失った人は150万世帯700万人、こうしたことが飢餓発生の引鉄になったことに変りはない。ボリシェヴィキがソ連全体に害毒をもたらし、そのなかには当然ロシアも含まれているわけだが、ボリシェヴィキが消滅し、ソ連が解体し、解体したソ連の遺産は正も負もふくめてロシアが受け継ぐことになった。「非合理な怨念」と「硬直的反撥」という関係がロシアとウクライナの間にもあるのだろう。ソルジェニツィンが民族主義者であることは周知のことだが、『収容所群島』を書いた人の「硬直的反撥」は残念としかいいようがない。 

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2009.09.11

煩・ナショナリズム ⑭

 1932,33年、ウクライナは大飢餓に襲われた。死者の数ははっきりとしないが、ソ連全土で500~600万人という話から、ウクライナだけで1000万人という説まである。2006年にウクライナは国会で、「ウクライナ民族に対するジェノサイド」であると決議した。
 大飢餓を招いた原因の一つは、1927年ソ連共産党第15回大会で決定された急速な工業化を図る「5ヵ年計画」にあったのだろう。農業国から工業国へ、5年後に全生産額を250%増やし、農業生産は150%増加させ、耕地の20%を集団農場化するというものだった。農民は抵抗する。28年春の穀物集荷は27年の三分の二に過ぎなかった。家畜の数は29年から31年の間に三分の二、羊・山羊は半分に減ったという。集団化に伴う農業機械は富農からの没収でまかなうというものだった。スターリンは「階級としての富農の絶滅」を打ち出し、最も富農とされ反革命的な者は投獄・強制収容所送りとし、家族はシベリアへ送られた。
 『民族とネイション』には、「2007年の戦勝記念日には、ユシチェンコ大統領がウクライナ・パルチザン軍(大戦中に反ソ闘争を遂行したウクライナ民族主義組織)の復権を呼びかけた。ナチのホロコーストと三二~三三飢餓を同列におき、そのどちらかを否定する言論はともに刑事罰の対象とすべきだという主張も高まっている」と書かれている。これに対しロシア側も反撥する。前掲書は、「ロシア・ナショナリズムの立場に立つ作家ソルジェニツィンは、飢餓は共産党上層部(少なからぬウクライナ人を含む)の失政によるもので、ウクライナ人抹殺を目論んだものではなかったと述べ、これを民族的ジェノサイドというのは挑発的なたわごとで、ボリシェヴィキ顔負けのデマ宣伝だと、激しく反撥をみせた」としている。
 10月革命のとき、ウクライナはウクライナ社民党・ウクライナエスエル党などのウクライナ中央ラーダがウクライナの大部分を掌握した。左翼勢力である。これをボリシェヴィキは攻撃し権力を奪い取る。長尾久は『ロシア十月革命』のなかで、「キーエフ(ウクライナの首都)で設立されたのは、だれの権力だったのだろうか? それは中央ソヴェートの権力であって、現地ソヴェートの権力ではなかったと言える。(略)現地人民にとって、特に民族問題のある地域で、中央の権力か現地の権力かは重要な問題である」と述べる。

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2009.09.10

煩・ナショナリズム ⑬

 『民族とネイション』(塩川伸明著 岩波新書)は次のように云っている。「ソ連における民族問題の顕著な特徴として、中心的な位置を占めるロシア人がその支配的位置にもかかわらずソ連体制に不満をもち、それゆえに独自のナショナリズムをもっていたという点がある。(略)この体制はその『平等』イデオロギーの制約のゆえに(略)『被抑圧民族』とみなされる非ロシア諸民族への特恵政策が重視された」。だがラトビア人学生であるサーシャの「一番虐げられているのはロシア人」というコトバは、このことを指しているのでは多分ない。「自分たちこそスターリン主義の最大の犠牲者だった」という意識がロシア人にはあると塩川伸明は文中に書いているが、これこそがそうでであろう。
 しかしラトビアの多くの人がそんなロシア人のことを考えることはない。自民族のことだけである。サーシャは独立運動から距離をおくようになる。運動のなかで大きくなっていく排外主義を許すことができない。彼らはユダヤ人とロシア人を排斥しようとする。「エトノクラチヤ(自民族独占支配)だよ。共産党支配と同じくらい悪い」。エストニアでも同じような事態が生じる。優れた学者がエストニアを脱出し、モスクワやイスラエルのテルアビブへ移る。また、独立運動は金儲けの手段となる。ドイツや米国のラトビア人移住者や反共団体から「資金援助」が出る。「ラトビア民族主義は商売として十分成り立つんだよ」。知識人としてのサーシャには我慢できなかったのだろう。そして力を持つのは排外主義をがなり立てる連中である。威勢のいいコトバにあおられ、人々は同調する。こんな陳腐な方法がいつまでも有効であり続ける。排外主義はそこらじゅうにあふれている。日本という国にも、そんなコトバが徘徊している。

 『民族とネイション』には、「歴史論争は往々にして堅実な歴史研究を離れた政治論となり、しかも他者に対する非合理的な怨念をぶつける ― そしてそのことが、ぶつけられた側の硬直的反撥を招き、対立がいっそうエスカレートする ― という形をとりやすい」と語り、ロシアとウクライナやバルト三国について述べている。塩川伸明は日本と中国や韓国との関係に似た面があるという。

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2009.09.09

煩・ナショナリズム ⑫

 ソ連から独立したバルト三国のひとつリトアニアは、1992年64人の外国人に勲章を出した。独立に寄与してくれた人間ということで、そのなかに佐藤優の名前があった。「一番驚いたのは私自身だった」と佐藤優は言っているが、独立運動の重要な局面で重要な役割を果たしたことが『自壊する帝国』(新潮文庫)のなかに書かれている。
 1991年1月、リトアニアの首都ビリニュスでリトアニア民族運動派の住民とソ連軍が衝突、死者14名、負傷者144名が出た。その2,3日後佐藤優はリトアニア入りをした。民族運動派は最高会議建物にバリケードを築き、手榴弾や自動小銃で武装していた。軽機関銃や対戦車砲ぐらいはあったかもしれないという。ソ連軍が突入すれば多数の死傷者が出るのは明らかであるし、撤退すれば独立運動にとって大きな痛手となる。立てこもっている人たちの緊張も極限に達し危険な状態だった。民族運動派とリトアニアの権力機構であるリトアニア共産党、この両派に信頼感を持たれ、人的つながりのある佐藤優の使者としての役割が、リトアニア独立に大きく貢献した。最高会議建物は民族運動派の拠点として存続した。そうしたことを佐藤優はなんの衒いもなく書いている。
 佐藤優がモスクワ大学で最も親しく、最も影響を受けたのは、ラトビア出身のサーシャという学生であったという。教授陣も一目置く秀才だが、単なる秀才ではなく政治的洞察力、行動力もあり、女性にすごくもてたというからうらやましい。彼の寮の部屋では哲学・思想書の研究会が行われ、内容は大学院のレベルより高かったという。研究会に来る学生の殆どはソ連のエリートの子弟、そうした連中が反体制思想の勉強をしていた。彼はラトビア独立運動に関わっていたし、最も早い段階でソ連解体の必然性を語っていたという。
 私たちと云ってよいのか、少なくとも私はラトビアなどバルト三国にしろ、ウズベクなど西トルキスタン諸国にしろ、いづれもがロシア支配下の植民地的状態であると思ってきた。ところがラトビア出身のサーシャはそうでないという。ラトビアの歴史はヨーロッパ各国からの蹂躙の歴史であり、18世紀には帝政ロシアに服し、1917年ロシア革命が起こり1918年独立を宣言、1939年独ソ不可侵条約の秘密議定書により翌40年にソ連支配下となった。こんな歴史を持つラトビアの学生がロシアは宗主国ではないという。
 ソ連は異常な帝国、一番虐げられているのはロシア人、帝国の中心はソ連共産党中央委員会、中央委員会に全ての権限があるがその行使に対する責任は一切ない。共産党というシステムには部分的であれ民主主義や自由化を入れることはできない。ゴルバチョフはそれが分からない。ソ連を立て直すには共産党をつぶさねばならない。その共産党がつぶれたらソ連という国家は存続し得ない。実際サーシャの云うとおりになった。グルジア出身のスターリンがソ連で君臨した理由がわかる。

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2009.09.07

煩・ナショナリズム ⑪

 「私の窓に雪の大山脈があらわれはじめた。幾えにも幾えにも奥の奥までひしめき重なり合っている地球の波。その果ては、はるか空に霞んでいる。(略)このおびただしい山の波を越えた向こうにタクラマカン砂漠があるのだという。ヒマラヤは空に霞んだあたりだという。窓硝子に額をぴったりつけて、さえぎる雲一つない大快晴の天空から、天山山脈を見つづける。まばたき一つしても惜しい。息を大きくしてもソン。頂に真白な雪をのせて、ゆっくりと少しずつ回りながら天山山脈は動き展がってゆく」(『犬が星見た』武田百合子著 中公文庫)
 東トルキスタンのほぼ中央を東西にはしる天山山脈、南がタリム盆地、北にジュンガル盆地、シルクロードの旅人はどのように天山山脈を眺めたのだろうか。武田百合子は武田泰淳や竹内好らとともに、ノヴォシビルスクからアルマトゥまでの飛行機のなかから天山山脈を見た。「天山山脈がうしろになると私はお産をすませたあとのような気分になり、眼をつぶった」とその感動を語る。その美しい天山山脈を越したタリム盆地・タクラマカン砂漠の東、馬蘭に中国の核実験場はあった。
 一行はタシケント、サマルカンド、トビリシ、ヤルタと進み、サンクトペテルブルグ、モスクワへと至る。まだソ連解体など誰も予想しない1969年のことである。当時ならソ連一国ですんだだろうが、今では西トルキスタンは幾つかの国になり、武田百合子たちはカザフスタン、ウズベキスタン、グルジア、ウクライナ、それとロシアへ行ったことになる。

 佐藤優は 「国家は崩壊することがある。 /  外国に征服された結果、国家が解体されてしまうこともあるが、国家が内側から自壊してしまうこともある。六十一年前に連合国によって解体された大日本帝国が前者の例で、十五年前に自壊したソビエト社会主義共和国連邦が後者の例だ」(『自壊する帝国』新潮文庫)と述べている。これからはどうか、現在の世界の大国、中国と米国、中国は軍管区ごとに解体するのではという人もいるし、田中宇は「合衆国は『民主主義』という国民の権利と『納税』などの義務とが明確な契約関係になっている。大多数の国民が今の連邦体制に不満を持つようになると、合衆国の連邦は解体しうる。すでに、伝統的に政治に敏感なニューハンプシャー州の議会では、米国からの『独立宣言』を模索する動きが続いている」 (http://tanakanews.com/090324dollar.htm)と云っている。予測がどうなるか分からないが、佐藤優はソ連解体の現場でいろいろな見聞体験をした。

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2009.09.06

煩・ナショナリズム ⑩

 9月3日、ウルムチの町で数万におよぶ漢人のデモと警官隊との衝突、5人の死者が出たと報じられている。発端は注射通り魔事件、6日の朝日新聞によれば531人が被害を受け、拘束した容疑者は20人以上、しかし事件はおさまらず、漢人の怒りは政府にもむけられ衝突となった、ということである。ウルムチ市人民検察院はウイグル人の男女4人を起訴したと5日発表した。この事件については新聞で書かれている以上のことは分からない。ただ漢人の怒りの多くが自治区政府に向けられたというのは意外に思った。デモの参加者は自治区トップである「王楽泉書記は辞任せよ」と叫んだという。
 『月刊日本』 8月号、宮崎正弘の “ウイグル騒擾の陰に権力闘争 ?!” は王楽泉書記について、「過去16年、新疆ウイグル自治区の党書記をつとめ独立活動家をテロリストと言い張って血の弾圧を強化し、ウイグル人の怨嗟の的になっていた。その一方で実弟ら山東省人脈を周囲に固めてビジネスを拡げ自治区の原油、ガス、レアメタル関連から軍の装備などの利権を掌握、あらゆる汚職のドンと言われた」と書いている。党組織の末端から軍や警察も王楽泉書記の「腐敗のお裾分けが配られ、あたかも王楽泉の私党、私軍とまで言われ」ているという。中国共産党幹部の腐敗はたびたび報じられているし、こうしたことがあったからウルムチの漢人も王楽泉書記に攻撃の矛先を向けたのかもしれない。
 注射針がウイグル人によるものかどうか分からないが、多分1990年代前半のころ、「ウルムチでバス爆破事件が発生、多数の死傷者が出た。犯行声明を出したのは、共産党政権や漢人の東トルキスタン支配に疑問を呈する中央アジアを拠点とした組織だった」(『中国を追われたウイグル人』(水谷尚子著 文春新書)。このとき、アニワル医師はまだ鉄道局付属病院で働いていた。非常呼集された医師や看護士は現場や病院で救急措置にあたった。そのときのことを、前掲書はつぎのように書いている。
 「ある漢人の医師が『早くウイグル人は我々と同化すべきだ。そうすればこのような事件は起こらない!』と腹立たしげに叫んだ。救急チームに集まった医師の中で、アニワルだけがウイグル人だったから、その場にいたすべての漢人の視線が、彼ひとりに注がれた。気まずい雰囲気が場を包んだ。 / 『確かに……あなたがた漢人は【偉大なる】民族だ。【日本鬼子(リーベンクイズ)】が中国を侵略とき、あなた達は八年の抗戦を経て勝利した。我々ウイグル人も、いつの日か、きっとそれに倣うだろう」。アニワルはそう云った。

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2009.09.03

煩・ナショナリズム ⑨

 今朝の新聞(朝日9/3朝刊)に、“反原発の支柱・核科学者 久米三四郎さん死去” という小さな記事が出ていた。8月31日83歳で逝かれたという。日本では高ノベル放射能が洩れる恐れの強い核燃料再処理施設は六ヶ所村、中国では東トルキスタン・新疆ウイグル自治区で核実験が行われた。以下 『中国を追われたウイグル人』(水谷尚子著 文春新書)に依る。
 中国が核開発をはじめたのは1950年代後半からだという。原子爆弾に成功したのは1964年、核実験は40数回、96年に実験の一時凍結を発表した。核実験場は東トルキスタン・新疆ウイグル自治区馬蘭にあった。この核実験の被災者などを撮った英国のTVドキュメント『シルクロードの死神』の取材に協力したウイグル人医師アニワル・トフティ氏はこのために政治亡命することになる。

 アニワル氏は鉄道局職員の子として生まれた。当時鉄道局でウイグル人は働いておらず、アニワル氏の父親は唯一といってよい例外だった。学校は鉄道局に付属する学校に通うことになり、まわりは漢人の子どもばかりだった。差別的言辞などを受けたものの政治的には晩生だった。医大生のとき東トルキスタン独立を目指す組織があることをはじめて知ったという。
 鉄道局付属病院の腫瘍専門外科で働くようになったころは鉄道局職員16万人、そのうちウイグル人が5千人となっていた。腫瘍外科病床40床のうち10床をウイグル人が占めていたが、職員の割合からすれば異常に高い。やがて分かったことはウイグル人の悪性腫瘍発症率は中国の他の地域の漢人に較べて35%も高いということ、新疆で20年以上暮している漢人は25%とこれも高く、10年以下の人は他の地域の漢人と同じだということだった。
 核実験場の風下、西側の地域は直接放射能が降り注ぐ。生まれてくる赤ちゃんの8割が口唇口蓋裂の村があり、歩けず話せない先天性異常による大脳未発達の子ばかりが生まれる村があり、腹や喉などの一部が肥大化し瘤をもった者の多い村もあった。癌の発生率は核実験の数とともに高くなり、白血病、リンパ癌、肺癌はそれが際立っていた。癌患者のなかで最も多いのは白血病で90%以上を占めていた。
 TVカメラはこれらの村々を撮ったが被爆調査であることは伏せられていた。ウルムチでは大学や病院の資料をアニワル氏が収集しフィルムに納めた。撮影隊の一行は、もしアニワルが逮捕されたら、と心配した。

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