煩・ナショナリズム ⑱
もしロシアに日本の一部の人たちが云っているような「反日」というふうな使用方法があるのなら、ブルブリスの北方領土を返還するという話は、右翼政党ロシア自民党あたりからは「反ロ」といわれるのだろう。しかしスターリン主義との訣別による国際的信頼を得るという長期的視野からすれば、ナショナリストであるジリノフスキーの方こそ「反ロ」ということになろう。このことは反日論議においても同様なことがいえる。
日高六郎は先の戦争のときの父親について次のように語っている。「忠臣気どりの軍人・政治家が、皇室に危機が起こる可能性にほとんど関心を持っていないようであることに、父は激怒していた。『君のため、国のため』に戦争をしてはならないという父の口癖には、実感があった。『忠義をいうものが、最大の不忠者』とも言い放っていた」(『戦争のなかで考えたこと』日高六郎著 筑摩書房)。この引用だけだと日高六郎のお父さんは天皇思いだけの人と誤解されてしまうから更に引用する。「父は後日、私に語った。先住民族のカミは、万物を産み、活かす力である。産むこと、生かすこと、生きることの力がカミである。殺すこと、滅ぼすこと、傷めることは、できるかぎり避ける。天皇の役割は、天皇のために民の犠牲を求めず、民のために天皇は一身を賭けることであるはずだ。(略)父は、天皇制以前が後続の天皇制のなかで活かされることが伝統だと考えていたようである」
鈴木邦男は『愛国と米国』(平凡社新書)のなかでいっている。「鵜の目鷹の目で、『不敬』 『反日』 『自虐』探しをしたら、いくらでもある」としてこんな例をあげている。私が小学校高学年か中学生になったころ『明治天皇と日露大戦争』という映画があった。大ヒットとなった映画で私も観に行った。上映時間前には映画館の前は人でいっぱい、映画館の人がドアを開けたら、圧力でそのまま人がなだれ込んでしまった。吶喊して撃たれると「天皇陛下バンザイ!」と云って兵隊は倒れ死んでいく。かっこういいな、私はそう思った。天皇賛美の映画である。明治天皇に扮したのは嵐寛寿郎である。「しかし、嵐寛のような結婚と離婚を繰り返すなど私生活の乱れた役者が明治天皇を演じるなど、とは不敬ではないか、という批判だってあった」と。最近の映画でいえば藤田まことが岡田中将を演じた『明日への遺言』。「自らは責任はないのに、部下の責任をとって死んだ。これは、責任をとらなかった天皇への強烈な批判」であるが故に「反天皇制の映画」、そして映画冒頭の重慶無差別爆撃のナレーションは、「反日」であり「自虐的」というわけである。
こういうふうに使えば私だって幾らでも「反日」であると指摘できる人はいる。田母神俊雄は反日である。なぜなら彼は米国のワナにかかって日本は戦争に引きずり込まれたという。それは当時の政府と軍部、そして天皇は、ワナをも気づかぬ無能、ということを暗に指差すことである。故に田母神は反日である。更に加えれば、こんなことは50年前の高校生が議論した程度の問題、これを平成の御代になっても広言することは、現在の自衛隊トップの頭脳の程度を世界中にさらしてしまうことになる。故に田母神は反日である。ついでに、小泉純一郎は反日である。なぜなら昭和天皇の大御心を踏みにじって靖国詣でをし、民に対しては米国の言いなりになって新自由主義を進め、貧困層の増大と中間層の没落を図り、貧富の差を拡大させた。弱者を切り捨て、地方を疲弊させた張本人小泉純一郎は反日である。鈴木邦男はこんな例もあげている。「『雅子さまは仮病だ。反日だ』などと言い出す人もいる。昔なら『不敬罪』だ」
何でもかでも「反日」、こんなことが可能なのは「反日」には定義なんていうものがなく、各自の恣意のままだから。だから、「反日」といわれるものの多くは、実際のところ「反日」に値しないものになってしまう。
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