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『AERA』5/25号の新聞広告に〈森田健作知事「剣道二段」も自称だった〉というのがあった。本屋で立ち読みだが、剣道の先生に二段の腕前と言われたので「剣道二段」と名乗ったそうだが、その先生の言葉が本当にあったのかどうかも今となっては確認できない。森田健作が知事になって恥ずかしいという千葉県の住民もいるが、恥ずかしいとは全然思わない人間が森田健作を選び、東京では石原慎太郎を、大阪では橋下徹を選んだ。日本全国恥ずかしいとは思わない人間が圧倒的多数であるということだ。
イラク人質事件のときの、自己責任の大合唱以来、恥ずかしく思わない人間が常に絶対多数であり続けるものだということを私は覚った。先の15年戦争も天皇や軍部の責任は無論あるが、こうした恥ずかしく思わない人たちの責任もある、私はそう思っている。『戦争の遺したもの』(鶴見俊輔 上野千鶴子 小熊英二著 新曜社)のなかで小熊英二は、「時局に沿ってゆれ動いていくというのは、知識人や政治家だけではないですよね。鶴見さんはそういう知識人のあり方は非常に批判なさいますけれども、時局に沿って揺れ動く庶民の批判はなさらない。どうしてですか。(略)その点が丸山眞男さんと、鶴見さんの分かれ目ですね」と問うている。貴族的出自ゆえの鶴見の負い目が、丸山との差異になっているらしいが、それは置いといても政治家や知識人の責任は確かに重いだろう。だから戦争への加担を庶民との一体感として開き直る小林秀雄のような人間を鶴見は批判する。白樺派のなかで戦争協力をしなかったのは里見弴と柳宗悦だけだという。武者小路実篤も志賀直哉も戦争の旗を振った。村上春樹がエルサレム賞受賞の言い分け=受賞スピーチで、受賞拒否・イスラエル行き拒否すべきという声に、「私は人に言われたことと正反対のことをするする傾向があるのです。(略)小説家は特別な集団なのです」などと言っているが、とんでもない。世の中の流れに従順な人間が多数の「普通の集団」として小説家があるのは今までを見れば分かる。彼らは人を煽ることを商売にしているだけに質が悪い。村上春樹はそんなことを知ってか知らずか、小説家という特権性をでっち上げて自己を擁護している。使い方は異なるが、小林も村上も庶民を自己弁護の道具にしていることに変りはない。
こうした知識人と呼ばれる人、さまざまな組織、媒体などによって煽られて、燃えてしまう絶対多数の恥ずかしく思わない生活者の人たち、多数派としての安心感に安住することによって戦争責任などというものも忌避することができる。「庶民の批判」の分かれ目は丸山眞男へ行かねばならない。だからといって、恥ずかしく思わない人たちが少なくなるとはこれっぽちもおもわないが。
今回で999回目。ひとつの区切り。これからは週に1回になるか、2週間に1回になるか、月に1回になるか分からないけど、記載減少です。
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