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2008.08.26

臓器摘出・闇の子供たち

 室井佑月のブログで、息子のことを書いたものにこんなのがある。「寝ていてふと目が覚めると、隣にいる息子の口元に手を当て、ちゃんと呼吸をしているかどうか確かめる。/ ほんとうは寝ているんじゃなく、死んでいるんじゃないだろうか。なーんてことをつい考えてしまうのだ。/ 生きてる、と確認すると、安心して再びぐっすり眠りにつける。/ つい先日、寝ていて目を覚ましたら、神妙な顔であたしの胸に耳を当てているあの男がいた。」
 「あの男」とはもちろん息子のことで、息子も母親の心臓が動いているか確認していたというわけである。息をしているか、心臓がドキドキしているか、先ず生死の確認はこの二つ、医者は加えて瞳孔が開いているかどうかを調べる。仏教思想を基にした九想図という死の段階を九つの段階で描いたものがあるが、どこから死んだとするかは宗教、文化、利害得失、エトセトラで本来は一律ではない。それでは困るので三徴候死というものが長らく死の基準となってきた。死の過程を、ある一点をもって死んでしまったと決めたわけだ。三徴候死が大方の人の死の捉えかたと差異がないことは、室井佑月親子の姿にあらわれているといえる。三徴候死の後は冷たくなり、体が硬直してきて皮膚に紫の斑点が生じてくる。死に化粧はこれを隠してくれる。
 三徴候死だけが死の基準でなくなったのは、臓器移植のためにつくられた脳死という新たな死の基準である。脳死とは臓器移植をやりたい医者が恣意的につくりだした死の基準だと思うが、そうした医者も嫌がる現象がドナーから臓器を取り出すさいに起きることがある。ドナーが苦しくて暴れているようにしか見えない行動をすることがあるのだという。脳死の判定基準の一つに、脳幹反射の消失という一項がある通り、脳死とは文字通り脳が全部死んでしまった状態である。苦しくて暴れる、ということは脳幹が生きていることの表れとも考えられるが、「ようにしか見えない」ということはそれを否定する表現である。臓器を取られてしまった人は本当に死んでしまうので、本当のところは分からない。脳死ですらなく、生きたまま臓器を摘出されているのかもしれないと思うと恐ろしい。
 これが、生きている人間から臓器摘出するということを、『闇の子供たち』(阪本順治監督)は取り上げたわけだが、残念なことに単なるエピソード的に描かれたものでしかない。

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