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2007.07.11

俳句

中上健次が詠んだ俳句の自筆色紙が見つかった、と出ていたのは一昨日の朝日夕刊、昨日の夕刊には、「句碑の里」の話が出ていた。
各地で町のアピールに工夫をこらしているが、句碑の里とはアイディア抜群だろう。山梨県中富町、合併で現在は身延町、1基5万円、短歌だと6万円で里の道1kmに石碑を建て、今やその数1169基、金額にすると5800万円を越えることになる。句碑を建てる人は、芭蕉や正岡子規の気分に浸れるわけで、「子どもからのプレゼント、亡父の思い出として、墓代わり」と1年に100~300基の依頼があるという。
俳人としての名はないがさすが中上健次、色紙が見つかっただけでニュースとなる。
  あきゆきが聴く幻の声夏ふよう 健次
気になる作家ではあったが、読者とは言えぬ私でも、「あきゆき」という文字に一瞬胸を突かれた。ああ、中上の小説を引っ張り出して読もうか、そう思った。「あきゆき」にはそうした力がある。路地の濃密な血をたぎらせた秋幸は、中上作品の象徴とも言うべきだろうか。中上の熱心な読者なら先刻承知のことかもしれないが、俳句にまで「あきゆき」が詠まれるとは、余ほどの意味があるのか。
新聞には「夏ふよう」という季語はないと書いてある。自由律なんていうのもあるが、俳句には約束事が多く、季語もそのひとつだが、素人には何が季語だか分からない。私なんか俳句を目にしても、意味のわからないものがけっこう多い。
芙蓉は夏に咲くから夏の季語? と思うが秋(旧暦からすればそうかもしれない)の季語で、ヒマワリやユリは夏の季語だという。季語というのはかなりいいかげんだと思うので、夏芙蓉も夏の季語にしちゃえば良い。虹は夏の季語だというが、何故夏? と思う。それが「春の虹」は春の季語で、「冬の虹」は冬の季語、要するにそうなったからそうなった、というわけで、極めて恣意的なのだ。そうは言っても型には美しさがあり、季語は俳句にとって大切なものなのだろう。

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